2013年03月15日
第5回 置いてけぼり一人、彼岸に思うこと
前回、日向の七草祭が行われる2月16日に間に合うよう書かせていただいてから早1ヵ月。当時忙しさのまっ只中だった仕事は2月中旬には目途がつく予定で、今頃は「たまらん」7号を仕切り直して作っているつもりでいた。
しかし印刷物作製のその仕事は予想外の仕事量で、結局2月末まで続き、3月に入った今も棚上げ状態にしていた事を一つずつ片づけるのに精一杯でいる。
「たまらん」編集余話なのに、肝心の「たまらん」最新号について、いつまでたっても明確に書けないことをお詫び申し上げたい。次回のブログには是非「たまらん」最新号の記事についての取材こぼれ話を書きたいと思っている。
もう一つ、ご報告すべきことがある。
自分の家族の不幸にばかりかまけていたが、「たまらん」を創刊したときから印刷でお世話になっていた中川プリントの社長、中川弘さんもちょうど兄と同じ頃に亡くなっていたことを最近知って愕然とした。
突然の「たまらん」中断を何とお詫びし、再開をお願いしようか考えていた、ちょうどその時に飛び込んだ訃報だった。
中川さんとはたった1年間だけのお付き合いとなってしまった。
一昨年の秋「たまらん」を創刊する決心をしたときに、徹底したローカル新聞を作りたいと考え相談した友人が中川プリントへ連れて行ってくれた。そして是非ともここに印刷をお願いしたいと決めた。
浅間通り商店街の奥、西草深の住宅街にある昔ながらの小さな印刷所だった。印刷機のガチャンガチャンいう音、インクの匂いなど〝町の印刷所〟らしさが、私のような活版印刷時代を知っている人間にはとても懐かしかったからだ。
もちろん「たまらん」はコンピューターで処理する最新の印刷方法なのだが。
最初は中川さん、半信半疑の感じで私の依頼を聞いてくれた。実際に入稿して初めて本気だとわかってくれた気がする。
そりゃあそうだろう。長く印刷業を続けていれば未払いや夜逃げなど、さまざまな人生を見てきたはずだ。会社を辞めた個人が、何の収入のあてもない新聞を印刷するというのだから、ま、夢物語と思われて当然だ。
1回や2回で終わる可能性も大きい。まがりなりにも1年間出し続けたことで、次第に信用してくれた様子だった
第3号のときは印刷代をまけてくれた。お膝元の静岡浅間神社廿日会祭と浅間通り商店街について特集した第4号のときは、刷り上がりを取りに行くと「あんた、いいこと書くよ。だけど、こういうものは長く続けなきゃね」と唐突に言われた。
思わぬ応援の言葉にうれしくなったが、それは「いつまでも自分の好きで作っているようなものにせず、多くの読者に歓迎される新聞にしていかなければならないし、ちゃんと収入を得られるような媒体にしなければ続かないよ」という警告でもあった。
ギョロ目で射るように見る強面から、とても真剣に「たまらん」のことを考えてくださっている気持ちが伝わってきた。
短いご縁だったが、中川さんに感謝の気持ちを捧げ、ご冥福を祈りたい。
引き続き、奥さんが経営を続ける中川プリントで「たまらん」再スタートを切りたいと思っているが、強い味方を失った気がしてとにかく心細い。
人生には、何もかもすべて失ってしまう年があるものなのだ。
昨年5月の連休明けに、「お前、なんかオモシロイ新聞出せよ」とハッパをかけてくれた元上司、島田圀郎さんの突然の訃報という大事件に見舞われたのだが、今となってはそれがすべての始まりだった。
そのあと東京の叔父が亡くなった。葬儀に二人で出掛けてとうとう戦争の時代を知っている身内が一人もいなくなってしまったねと話した兄がまもなく逝ってしまった。そして中川さんも亡くなった。
年は明けたが先月には、30数年来お世話になった長唄三味線の稀音家和喜之助師匠が95歳の長寿を全うした。不思議なことに、叔父の葬儀で兄と訪れたばかりの同じ葬儀会場と同じ斎場で師匠の葬儀が行われた。精進落としの席などまったく同じ部屋で、親戚代表としてのあいさつを急に依頼され、興奮気味に話した兄の姿がよみがえった。
師匠の長女である日本舞踊の花柳若由美先生にお悔やみを伝えるとき「みんな行っちゃいましたね。あっちの方が楽しそう」と思わず言ってしまった。
置いてけぼりを食らった人間にとって、彼岸はうらやましい場所となった。
さて、「たまらん」は昨年取材をさせていただいた方々のことを書くために、なるべく早く再開しなければと思っている。
と、ぐずぐずしているうちに過去取材したネタがどんどん進展していることを知って驚いた。その経過を「たまらん」で引き続き報告しなければという責任も感じ始めている。一つの動きを話題性だけ求めて一回掲載して終わるのではなく、何度も取り上げて見守るような新聞にしたいと思っていたが、それが現実のものになると思うと興奮する。
ネタの一つは「たまらん」5号に掲載した駿府浪漫バスだ。赤字路線として見直し案が出された市のバス路線が廃止の危機を迎えている現状と、それを機に公共交通について考えたいと特集した。
それが縁で駿府浪漫バスの検討委員会にも参加させていただき、経過を見守ってきたが、廃止ではなく、より利用しやすくするためにルートや停留所名を一部変更したり、運行時間を少しだけ遅くまで延長したり、路線の周辺ガイドを充実させるなどの積極案でまとまり、あとは議会の承認を得るだけになった。
もう一つは第6号で特集した、そばの静岡在来種だ。その後も蕎麦のたがたさんたちは在来種の普及に努めてきて、この3月4日、いよいよ「静岡在来そばブランド化推進協議会」を設立した。私も会員に入れていただいたが、そば好きなら誰でも参加できる会なので、「たまらん」読者もぜひ静岡在来種の盛り上げに協力していただきたい。
たがたさんたちは在来種を求めて山間地を訪ね歩くことで、貴重な在来種とそれを守り育ててきた人が絶えてしまうギリギリのところにあることを実感するという。その危機感から、とにかく急ごうと実行に移した。
一緒にそばの在来種を探し歩く静岡県農林技術研究所の稲垣栄洋さんは、同時に野菜の在来種も豊富に残っていることに気付き、在来野菜を味わうプロジェクトも始めた。私もこうした静岡独自の山の文化を残すために食事会を企画したり本を編集するなどの後方支援に努めたいと思っている。
もちろん「たまらん」次号で詳しく紹介したい。乞うご期待を。
しかし印刷物作製のその仕事は予想外の仕事量で、結局2月末まで続き、3月に入った今も棚上げ状態にしていた事を一つずつ片づけるのに精一杯でいる。
「たまらん」編集余話なのに、肝心の「たまらん」最新号について、いつまでたっても明確に書けないことをお詫び申し上げたい。次回のブログには是非「たまらん」最新号の記事についての取材こぼれ話を書きたいと思っている。
もう一つ、ご報告すべきことがある。
自分の家族の不幸にばかりかまけていたが、「たまらん」を創刊したときから印刷でお世話になっていた中川プリントの社長、中川弘さんもちょうど兄と同じ頃に亡くなっていたことを最近知って愕然とした。
突然の「たまらん」中断を何とお詫びし、再開をお願いしようか考えていた、ちょうどその時に飛び込んだ訃報だった。
中川さんとはたった1年間だけのお付き合いとなってしまった。
一昨年の秋「たまらん」を創刊する決心をしたときに、徹底したローカル新聞を作りたいと考え相談した友人が中川プリントへ連れて行ってくれた。そして是非ともここに印刷をお願いしたいと決めた。
浅間通り商店街の奥、西草深の住宅街にある昔ながらの小さな印刷所だった。印刷機のガチャンガチャンいう音、インクの匂いなど〝町の印刷所〟らしさが、私のような活版印刷時代を知っている人間にはとても懐かしかったからだ。
もちろん「たまらん」はコンピューターで処理する最新の印刷方法なのだが。
最初は中川さん、半信半疑の感じで私の依頼を聞いてくれた。実際に入稿して初めて本気だとわかってくれた気がする。
そりゃあそうだろう。長く印刷業を続けていれば未払いや夜逃げなど、さまざまな人生を見てきたはずだ。会社を辞めた個人が、何の収入のあてもない新聞を印刷するというのだから、ま、夢物語と思われて当然だ。
1回や2回で終わる可能性も大きい。まがりなりにも1年間出し続けたことで、次第に信用してくれた様子だった
第3号のときは印刷代をまけてくれた。お膝元の静岡浅間神社廿日会祭と浅間通り商店街について特集した第4号のときは、刷り上がりを取りに行くと「あんた、いいこと書くよ。だけど、こういうものは長く続けなきゃね」と唐突に言われた。
思わぬ応援の言葉にうれしくなったが、それは「いつまでも自分の好きで作っているようなものにせず、多くの読者に歓迎される新聞にしていかなければならないし、ちゃんと収入を得られるような媒体にしなければ続かないよ」という警告でもあった。
ギョロ目で射るように見る強面から、とても真剣に「たまらん」のことを考えてくださっている気持ちが伝わってきた。
短いご縁だったが、中川さんに感謝の気持ちを捧げ、ご冥福を祈りたい。
引き続き、奥さんが経営を続ける中川プリントで「たまらん」再スタートを切りたいと思っているが、強い味方を失った気がしてとにかく心細い。
人生には、何もかもすべて失ってしまう年があるものなのだ。
昨年5月の連休明けに、「お前、なんかオモシロイ新聞出せよ」とハッパをかけてくれた元上司、島田圀郎さんの突然の訃報という大事件に見舞われたのだが、今となってはそれがすべての始まりだった。
そのあと東京の叔父が亡くなった。葬儀に二人で出掛けてとうとう戦争の時代を知っている身内が一人もいなくなってしまったねと話した兄がまもなく逝ってしまった。そして中川さんも亡くなった。
年は明けたが先月には、30数年来お世話になった長唄三味線の稀音家和喜之助師匠が95歳の長寿を全うした。不思議なことに、叔父の葬儀で兄と訪れたばかりの同じ葬儀会場と同じ斎場で師匠の葬儀が行われた。精進落としの席などまったく同じ部屋で、親戚代表としてのあいさつを急に依頼され、興奮気味に話した兄の姿がよみがえった。
師匠の長女である日本舞踊の花柳若由美先生にお悔やみを伝えるとき「みんな行っちゃいましたね。あっちの方が楽しそう」と思わず言ってしまった。
置いてけぼりを食らった人間にとって、彼岸はうらやましい場所となった。
さて、「たまらん」は昨年取材をさせていただいた方々のことを書くために、なるべく早く再開しなければと思っている。
と、ぐずぐずしているうちに過去取材したネタがどんどん進展していることを知って驚いた。その経過を「たまらん」で引き続き報告しなければという責任も感じ始めている。一つの動きを話題性だけ求めて一回掲載して終わるのではなく、何度も取り上げて見守るような新聞にしたいと思っていたが、それが現実のものになると思うと興奮する。
ネタの一つは「たまらん」5号に掲載した駿府浪漫バスだ。赤字路線として見直し案が出された市のバス路線が廃止の危機を迎えている現状と、それを機に公共交通について考えたいと特集した。
それが縁で駿府浪漫バスの検討委員会にも参加させていただき、経過を見守ってきたが、廃止ではなく、より利用しやすくするためにルートや停留所名を一部変更したり、運行時間を少しだけ遅くまで延長したり、路線の周辺ガイドを充実させるなどの積極案でまとまり、あとは議会の承認を得るだけになった。
もう一つは第6号で特集した、そばの静岡在来種だ。その後も蕎麦のたがたさんたちは在来種の普及に努めてきて、この3月4日、いよいよ「静岡在来そばブランド化推進協議会」を設立した。私も会員に入れていただいたが、そば好きなら誰でも参加できる会なので、「たまらん」読者もぜひ静岡在来種の盛り上げに協力していただきたい。
たがたさんたちは在来種を求めて山間地を訪ね歩くことで、貴重な在来種とそれを守り育ててきた人が絶えてしまうギリギリのところにあることを実感するという。その危機感から、とにかく急ごうと実行に移した。
一緒にそばの在来種を探し歩く静岡県農林技術研究所の稲垣栄洋さんは、同時に野菜の在来種も豊富に残っていることに気付き、在来野菜を味わうプロジェクトも始めた。私もこうした静岡独自の山の文化を残すために食事会を企画したり本を編集するなどの後方支援に努めたいと思っている。
もちろん「たまらん」次号で詳しく紹介したい。乞うご期待を。
Posted by eしずおかコラム at 12:00