2013年07月19日
第9回 水窪はむかし〝お街〟だった
水窪体験を2ヵ月連続でご紹介したので、今月は7月13・14・15日の3日間で行われる、静岡市井川の焼畑と在来ソバの畑づくり準備について書こうと思っていた。が、原稿締切が7月10日と微妙なズレが生じたので、その体験は来月ご報告させてもらうことにして、今月は3度目の水窪体験談にお付き合いいただこうと思う。
今回はちょっと硬派でアカデミックというか・・・。6月22日に水窪の文化会館で開かれたシンポジウムへの参加が目的だった。
「自然と共に生きる~水窪からの発信」と題したシンポは、地元水窪の人たちを中心にした「NPO法人山に生きる会」の主催、磐田や浜松在住のメンバーを中心に遠州地方の民の歴史を学ぶ「遠州常民文化談話会」の共催で開かれた。遠州常民文化談話会が先ごろ編集発行して好評を得た『水窪の民俗』での現地調査などを通して交流を深めたようだ。
水窪の文化や伝統を後世へどうつないでいけばいいのか。なかなか答の見つからないむずかしい課題だが、天竜川の下流域と上流域の住民がまず意見交換をする場をつくろうと考えたのだ。
まずは民俗調査で水窪を何度も訪れ、静岡新聞社から『自然と共に生きる作法~水窪からの発信』という本を出版したばかりの近畿大学名誉教授、野本寛一先生が「水窪の底力」と題して講演を行った。
「水窪の地を守るためには、とにかく産業をおこさなければダメだ!」と、聴く者の心臓をわしづかみにするような力強い声で野本先生は力説した。貴重な山の栄養源となる栃の木、新月伐採による良質の材木などなど、例をあげて水窪ならではの新たな産業へのヒントを投げ掛けた。そして、今回のシンポジウムのメンバーのように川の下流域と上流域の人々が手を組まなくてはダメだ、とも。
中山間地振興の名の下にボランティアで社会貢献しようという機運は高まっている。しかしボランティア活動では山間地の高齢化に歯止めはかからない。新しい産業を生み出すしかないのでは・・・と、地元静岡市の中山間地対策について「たまらん」で街なかと山との交流を具体的に企画できないかと考えていた私は「やっぱ、そうか!!」と、勇気をもらった気がした。
シンポジウムで意見交換をするNPO法人山に生きる会と遠州常民文化談話会のメンバー。
石本静子さん(左から2人目)もパネリストとなった
(撮影/遠州常民文化談話会の山内薫明さん。以下すべて)
さて、ずいぶん真面目な旅のスタートだったが、あとは言ってみれば〝大人の修学旅行〟そのもの。
夜は、またまたまた「つぶ食いしもと」へ。野本先生を囲んで、談話会のメンバーと地元の人たちとの交流会というか飲み会が開かれた。ビールに地酒、ワイン、焼酎とビンを持ってまわる人ありでみんなチャンポン状態。龍山村森林組合に勤める談話会会員や静岡新聞の水窪支局長など青年も何人かいたので、山の夜は若々しく大いに盛り上がった。
お泊まり組はいい心持ちで街道沿いの老舗「和泉屋」に宿泊。木造建築の堂々たる3階建て旅館は、その3階建てがネックになり、消防法に違反するからと営業を停止せざるを得なくなったという。
料理が好きで何でも手作りするという気さくな奥さんと、優しくて感じのいいご主人は、夫婦二人きりでも旅館を続けていきたい気持ちがあるというのに、残念でならない。朝は飯田線の一番列車の音で目覚めるなんて懐かしい体験もできるのに…。
朝ごはんには奥さんの煮た在来種〝水窪じゃがた〟も出て、小芋ながら引き締まった身は歯ごたえよく味も濃くて「やっぱ、おいしいわ」と感心した。
夜は「つぶ食いしもと」で交流会。講演に引き続き力強いメッセージで水窪の人々に檄を
飛ばす野本寛一先生(中央)。野本先生を囲む飲み会だから盛り上がるの何のって・・・
朝の電車で出発する野本先生を「和泉屋」で見送り、談話会のお泊まりメンバーは国境の青崩峠へ向かった。その名の通り崩れている山なのでハイキングコースしかなく、車は兵越峠まで迂回しなければ長野県側へ越えられないという難所だ。
こんな機会でもなければなかなか行けないだろうとのプランだったが、確かに、私などこれを逃したら一生行けなかったかもしれない。
青崩峠。崩という文字から崩壊をイメージし、なんとなく暗く恐ろしい光景を想像していた。車を置いて、いよいよ峠越えの山道を歩き出すとやはり、昼なお暗く、うっそうとして、ところどころ沢の流れが道上を通ったりする危険がいっぱいのコースだ。
石を敷いて歩道を築いてはあるが、細くてけものみち程度しかない。途中、江戸時代に秋葉詣をする旅人相手の茶屋があったが悪人に襲われて亭主も女房も悲しい目に合ったという茶屋跡の札が立っていた。「え~、こんなところに茶屋があったの?」と、急な斜面のほんのわずかな平地を見て、こんなところで商売をした昔人の根性に仰天した。
やがて青崩峠に到着。南を向くと山の谷間に水窪の市街地(?)が見下ろせる。北は木々が茂って見えにくかったが、やはり山の谷間に長野県側の集落が見下ろせる。「これが中央構造線です」と教わった。なるほど、青崩峠を通って二つの地質を分けるラインができているではないか。
ここが青崩峠のてっぺん。中央の道を右にとると長野県側の下りコースになる。
少し下りたところから崩れの斜面を見ることができる
「こっちに青崩があるよ」と案内されるままに長野県側の峠の斜面を見に行く。確かに小さな岩で埋め尽くされた斜面がむき出しになり木も生えず、いまにも崩れて来そうな崖だ。しかも斜面の色が青っぽいのだ。「だから青崩なんだ!」。
人間、自分の目で確かめなければ真実の姿はわからないものだ。何が一番イメージと違ったか。それは、明るくて美しい光景だったことだ。陽光に照らされて青く輝く斜面は崩壊という恐ろしいイメージではなく、滝を眺めるがごとく自然の造形を楽しめた。
燦然と輝くこの光の向こうに青い崩れの斜面がある。「危険だから近付かない方がいいよ」
と言われ、コワがりの私は登って行く会長さんに何事もないよう見守るだけだった
これが青崩峠より南に走る中央構造線の眺め。山間に見下ろせるのが水窪の市街地だ
こちらが北へ走る中央構造線の眺め。長野県の小さな集落が見える
帰り道、国の重要無形民俗文化財に指定されている西浦の田楽の里を山の上から見下ろせる場所があると、桂山という小さな集落へ連れて行ってもらった。
北遠でしばしば体験するのだが、桂山もまさにそれだった。幾重もあるヘアピンカーブを登り厳しい山の暮らしを見に行く気分で進むと、突如、山の上に平らな空間が現れ、わずか数件しかないその小さな集落はまるで桃源郷なのだ。「ここはいったい何?」と言わずにはいられないほど穏やかで美しい山里。そこだけ異次元なのだ。
おばあちゃんが一人畑仕事をしていてにっこり。談話会のメンバーはさっそく挨拶しながらいろいろな質問をし始めた。こういうおばあちゃんが毎日せっせと仕事をしているから、古い家も畑も道もゴミはもちろん、雑草や枯れ葉もなく整然としている。よく「こんなキタナイ家だけど・・・」なんて恥ずかしそうに家人は言うけれど「いえいえ、どこよりも何よりもキレイです!」。古くても美しい。丁寧に生活することの美徳を思い知る瞬間だ。
帰りに立ち寄った桂山という山上の集落。畑仕事をしていたおばあちゃんがいろんな
質問に答えてくれた。背景の茶畑が物語るようにすべてが美しく整えられた里だった
帰路、こんな不便な山の上にどうして住もうなんて昔の人は考えたんでしょうか、と談話会の方々に質問した。すると、川沿いに道ができたり家ができたりしたのは現代になってからのこと。その昔は、山の上に街道が通っていたから、集落も街道にそう遠くない位置だったんです——との答え。
目からウロコだった。秋葉詣の旅人や塩の道を通る商人たちが盛んに往き来したのは、山の上だったのだ。大雨や台風で荒れる川近くなんて危険で、歩くところでも住むところでもなかったのだ。そんな昔人たちの自然観を現代文明がすっかり変えて、記憶すら消し去ってしまったのだ。
そう言えば、在来種研究のプロジェクトZを主宰する稲垣栄洋さんが、どんなに下の方で遠州のからっ風が吹き荒れている日でも、水窪の山の上の集落は風もなくぽかぽかと穏やかだったりするんですよ、と話していた。
山間部の集落は不便で寒くてキツイところなどではない。豊かで平和で美しい、優雅な暮らしを楽しめるところなのだ。
最後に水窪民俗資料館を見学させてもらった。ここに、林業が盛んだったころの木を伐り出す木馬(きんま)を模型にした部屋がある。木馬とは、急な斜面で重い丸太を伐り出し運ぶための足場のことだ。
模型を見てまたびっくり。たったいま眺めてきた大きな山々のあの斜面に、香港の高層ビル建築用に組まれた竹の足場を、もっともっと大掛かりにしたような材木の足場を組み丸太を運び出していたなんて。どれほどダイナミックな光景だったのだろうか。
そして、それだけの大仕事ならば、林業に関連するさまざまな職業の人が水窪の地に集結し、相当にぎわったに違いない。その昔、水窪はたいそうな〝お街〟だったのだ。今回泊まった和泉屋旅館がある界隈が「水窪の歓楽街」と聞いて大笑いしたが、たしかに一大歓楽街だったのかもしれない。
その林業が衰退してしまったのだから過疎化するはずだ。野本先生が「水窪に新たな産業を」と力説するのは当たり前のことだと実感した旅だった。
みなさんもぜひ、機会があったら水窪の地に自分で立ち、その風景を実際に見てください。ロマンあふれる旅になるはずです。
今回はちょっと硬派でアカデミックというか・・・。6月22日に水窪の文化会館で開かれたシンポジウムへの参加が目的だった。
「自然と共に生きる~水窪からの発信」と題したシンポは、地元水窪の人たちを中心にした「NPO法人山に生きる会」の主催、磐田や浜松在住のメンバーを中心に遠州地方の民の歴史を学ぶ「遠州常民文化談話会」の共催で開かれた。遠州常民文化談話会が先ごろ編集発行して好評を得た『水窪の民俗』での現地調査などを通して交流を深めたようだ。
水窪の文化や伝統を後世へどうつないでいけばいいのか。なかなか答の見つからないむずかしい課題だが、天竜川の下流域と上流域の住民がまず意見交換をする場をつくろうと考えたのだ。
まずは民俗調査で水窪を何度も訪れ、静岡新聞社から『自然と共に生きる作法~水窪からの発信』という本を出版したばかりの近畿大学名誉教授、野本寛一先生が「水窪の底力」と題して講演を行った。
「水窪の地を守るためには、とにかく産業をおこさなければダメだ!」と、聴く者の心臓をわしづかみにするような力強い声で野本先生は力説した。貴重な山の栄養源となる栃の木、新月伐採による良質の材木などなど、例をあげて水窪ならではの新たな産業へのヒントを投げ掛けた。そして、今回のシンポジウムのメンバーのように川の下流域と上流域の人々が手を組まなくてはダメだ、とも。
中山間地振興の名の下にボランティアで社会貢献しようという機運は高まっている。しかしボランティア活動では山間地の高齢化に歯止めはかからない。新しい産業を生み出すしかないのでは・・・と、地元静岡市の中山間地対策について「たまらん」で街なかと山との交流を具体的に企画できないかと考えていた私は「やっぱ、そうか!!」と、勇気をもらった気がした。
シンポジウムで意見交換をするNPO法人山に生きる会と遠州常民文化談話会のメンバー。
石本静子さん(左から2人目)もパネリストとなった
(撮影/遠州常民文化談話会の山内薫明さん。以下すべて)
さて、ずいぶん真面目な旅のスタートだったが、あとは言ってみれば〝大人の修学旅行〟そのもの。
夜は、またまたまた「つぶ食いしもと」へ。野本先生を囲んで、談話会のメンバーと地元の人たちとの交流会というか飲み会が開かれた。ビールに地酒、ワイン、焼酎とビンを持ってまわる人ありでみんなチャンポン状態。龍山村森林組合に勤める談話会会員や静岡新聞の水窪支局長など青年も何人かいたので、山の夜は若々しく大いに盛り上がった。
お泊まり組はいい心持ちで街道沿いの老舗「和泉屋」に宿泊。木造建築の堂々たる3階建て旅館は、その3階建てがネックになり、消防法に違反するからと営業を停止せざるを得なくなったという。
料理が好きで何でも手作りするという気さくな奥さんと、優しくて感じのいいご主人は、夫婦二人きりでも旅館を続けていきたい気持ちがあるというのに、残念でならない。朝は飯田線の一番列車の音で目覚めるなんて懐かしい体験もできるのに…。
朝ごはんには奥さんの煮た在来種〝水窪じゃがた〟も出て、小芋ながら引き締まった身は歯ごたえよく味も濃くて「やっぱ、おいしいわ」と感心した。
夜は「つぶ食いしもと」で交流会。講演に引き続き力強いメッセージで水窪の人々に檄を
飛ばす野本寛一先生(中央)。野本先生を囲む飲み会だから盛り上がるの何のって・・・
朝の電車で出発する野本先生を「和泉屋」で見送り、談話会のお泊まりメンバーは国境の青崩峠へ向かった。その名の通り崩れている山なのでハイキングコースしかなく、車は兵越峠まで迂回しなければ長野県側へ越えられないという難所だ。
こんな機会でもなければなかなか行けないだろうとのプランだったが、確かに、私などこれを逃したら一生行けなかったかもしれない。
青崩峠。崩という文字から崩壊をイメージし、なんとなく暗く恐ろしい光景を想像していた。車を置いて、いよいよ峠越えの山道を歩き出すとやはり、昼なお暗く、うっそうとして、ところどころ沢の流れが道上を通ったりする危険がいっぱいのコースだ。
石を敷いて歩道を築いてはあるが、細くてけものみち程度しかない。途中、江戸時代に秋葉詣をする旅人相手の茶屋があったが悪人に襲われて亭主も女房も悲しい目に合ったという茶屋跡の札が立っていた。「え~、こんなところに茶屋があったの?」と、急な斜面のほんのわずかな平地を見て、こんなところで商売をした昔人の根性に仰天した。
やがて青崩峠に到着。南を向くと山の谷間に水窪の市街地(?)が見下ろせる。北は木々が茂って見えにくかったが、やはり山の谷間に長野県側の集落が見下ろせる。「これが中央構造線です」と教わった。なるほど、青崩峠を通って二つの地質を分けるラインができているではないか。
ここが青崩峠のてっぺん。中央の道を右にとると長野県側の下りコースになる。
少し下りたところから崩れの斜面を見ることができる
「こっちに青崩があるよ」と案内されるままに長野県側の峠の斜面を見に行く。確かに小さな岩で埋め尽くされた斜面がむき出しになり木も生えず、いまにも崩れて来そうな崖だ。しかも斜面の色が青っぽいのだ。「だから青崩なんだ!」。
人間、自分の目で確かめなければ真実の姿はわからないものだ。何が一番イメージと違ったか。それは、明るくて美しい光景だったことだ。陽光に照らされて青く輝く斜面は崩壊という恐ろしいイメージではなく、滝を眺めるがごとく自然の造形を楽しめた。
燦然と輝くこの光の向こうに青い崩れの斜面がある。「危険だから近付かない方がいいよ」
と言われ、コワがりの私は登って行く会長さんに何事もないよう見守るだけだった
これが青崩峠より南に走る中央構造線の眺め。山間に見下ろせるのが水窪の市街地だ
こちらが北へ走る中央構造線の眺め。長野県の小さな集落が見える
帰り道、国の重要無形民俗文化財に指定されている西浦の田楽の里を山の上から見下ろせる場所があると、桂山という小さな集落へ連れて行ってもらった。
北遠でしばしば体験するのだが、桂山もまさにそれだった。幾重もあるヘアピンカーブを登り厳しい山の暮らしを見に行く気分で進むと、突如、山の上に平らな空間が現れ、わずか数件しかないその小さな集落はまるで桃源郷なのだ。「ここはいったい何?」と言わずにはいられないほど穏やかで美しい山里。そこだけ異次元なのだ。
おばあちゃんが一人畑仕事をしていてにっこり。談話会のメンバーはさっそく挨拶しながらいろいろな質問をし始めた。こういうおばあちゃんが毎日せっせと仕事をしているから、古い家も畑も道もゴミはもちろん、雑草や枯れ葉もなく整然としている。よく「こんなキタナイ家だけど・・・」なんて恥ずかしそうに家人は言うけれど「いえいえ、どこよりも何よりもキレイです!」。古くても美しい。丁寧に生活することの美徳を思い知る瞬間だ。
帰りに立ち寄った桂山という山上の集落。畑仕事をしていたおばあちゃんがいろんな
質問に答えてくれた。背景の茶畑が物語るようにすべてが美しく整えられた里だった
帰路、こんな不便な山の上にどうして住もうなんて昔の人は考えたんでしょうか、と談話会の方々に質問した。すると、川沿いに道ができたり家ができたりしたのは現代になってからのこと。その昔は、山の上に街道が通っていたから、集落も街道にそう遠くない位置だったんです——との答え。
目からウロコだった。秋葉詣の旅人や塩の道を通る商人たちが盛んに往き来したのは、山の上だったのだ。大雨や台風で荒れる川近くなんて危険で、歩くところでも住むところでもなかったのだ。そんな昔人たちの自然観を現代文明がすっかり変えて、記憶すら消し去ってしまったのだ。
そう言えば、在来種研究のプロジェクトZを主宰する稲垣栄洋さんが、どんなに下の方で遠州のからっ風が吹き荒れている日でも、水窪の山の上の集落は風もなくぽかぽかと穏やかだったりするんですよ、と話していた。
山間部の集落は不便で寒くてキツイところなどではない。豊かで平和で美しい、優雅な暮らしを楽しめるところなのだ。
最後に水窪民俗資料館を見学させてもらった。ここに、林業が盛んだったころの木を伐り出す木馬(きんま)を模型にした部屋がある。木馬とは、急な斜面で重い丸太を伐り出し運ぶための足場のことだ。
模型を見てまたびっくり。たったいま眺めてきた大きな山々のあの斜面に、香港の高層ビル建築用に組まれた竹の足場を、もっともっと大掛かりにしたような材木の足場を組み丸太を運び出していたなんて。どれほどダイナミックな光景だったのだろうか。
そして、それだけの大仕事ならば、林業に関連するさまざまな職業の人が水窪の地に集結し、相当にぎわったに違いない。その昔、水窪はたいそうな〝お街〟だったのだ。今回泊まった和泉屋旅館がある界隈が「水窪の歓楽街」と聞いて大笑いしたが、たしかに一大歓楽街だったのかもしれない。
その林業が衰退してしまったのだから過疎化するはずだ。野本先生が「水窪に新たな産業を」と力説するのは当たり前のことだと実感した旅だった。
みなさんもぜひ、機会があったら水窪の地に自分で立ち、その風景を実際に見てください。ロマンあふれる旅になるはずです。
Posted by eしずおかコラム at 12:00